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「あきらめること」は必要なこと【恥ずかしい事ではない】

「あきらめること」は誰もが通る道で、大小様々ありますね。

好きなことを諦めたり、嫌いなことを続けるのを諦めたり、色々なことがあると思うんですよ。

子供の頃、ふとした時に「サッカー選手になるんだ!」と私は思い込んでいた時期があり、将来はサッカー選手だろうなとずっと考えて生活してましたし、それに向かって一生懸命でした。

今思えば、無謀な夢だったなと認識出来るのですが、中学生を卒業するくらいになって、世の中の広さを思い知って、サッカー選手になる夢をあきらめましたね。

あなたにもきっと、このような経験がありませんか?

今回の記事はあきらることは恥ずかしいことではないことをお話していきます。

何かを「あきらめる」ことは選択をするということ

あなたは「あきらめる」ことに対して、嫌悪感を抱いていませんか?

誰しも、日々生活する中であきらめるということは常にしているということをお話したいです。

簡単に例を出して説明すると、朝の起きる時間であなたは携帯の目覚まし機能、置時計の目覚ましを3個以上セットしたことはありませんか?

最初の1個で目覚めれば良いですが、多くの人は1回目で起きるということを「あきらめている」経験をしているはずです。

私も何度も鳴らして、最初の1回目の目覚ましは予告みたいな感じで後半の2回目、3回目で起きるようにしています。

これもある種のあきらめるということで、日々誰もがあきらめていることに慣れているのです。

大きな決意ではないにしろ、小さいあきらめは誰でも経験していることなので、恥ずかしいことではないということが分かってもらえると思います。

「あきらめる」というのは、予感や予知のようなもの

あきらめることを選択する時には、身近な未来やずっと先のことを想定して選択しています。

それは予感や予知のようなもので、自分の能力に見合っていればあきらめるという選択はしなくて済むのです。

選択するということは自分の能力が見合っていなかったり、達していなかったりする時に選択することで、さらに言えば、自分の能力がこれから先に埋められないと察知する時にあきらめる選択を取ることがあるのです。

いわば、予感や予知で「続けていても無理だろう」と判断した時にあきらめることが多いですね。

あきらめることは再出発のための選択でもある

某有名なセリフで「あきらめたら、そこで試合終了ですよ」という名言がありましたが、現実世界ではそうではなく、あきらめて早めに再出発を早くした方が私は良いと考えています。

世の中にはあきらめることの方がたくさん溢れており、継続して続けていく方が本当に難しいのです。

あきらめることがたくさん溢れていますが、その中でも「これだけはあきらめられない」というものに対してだけ、愛情を注ぎ、しがみつく根性があれば今まであきらめてきた行動は全てその時のためにやってきた行動ではないでしょうか。

 

今回はここまでです。